2019.04.08,

新元号で注目される万葉集 その世界観から思うこと

こんにちは! 共働き未来大学・プロボノの山田です。

さて4月1日、とうとう新元号が発表されましたね! 「令和」、みなさんの感想はいかがですか?

さて。
新元号発表後は、典拠となった『万葉集』の関連書籍が相次いで売り切れ、緊急重版を決定した出版社も多いのだとか。そこで今回は最古の歌集『万葉集』をテーマに、コラムスタートです。

 

実は知れば知るほど面白い「元号」

本題の前に、元号の歴史を振り返ってみましょう。日本で元号が使用されたのは645年の大化から。なんと1370年以上、元号を使用しているのですね。が元々、元号は古代中国・前漢の武帝から始まったもの。吉兆とされる漢字の組み合わせにより年を表しており、その制度が古代中国の影響下にあった地域に広がったのです。現在、唯一の元号使用国でもある日本ですが、その影響を受けた国、というわけですね。
ちなみに元号数は大化から平成までに247。その中で最も短いのは第87代・四条天皇の『暦仁』(りゃくにん)で2か月と14日。最も長いのは『昭和』の62年と13日。これは世界で最も長く用いられた元号でもあります。

また、史上唯一、元日に行われた改元も。第49代・光仁天皇とその子、第50代桓武天皇が在位した『天応』(てんおう・てんのう)です。いわゆる、吉兆が見られたことで行う「祥瑞改元」であり、伊勢斎宮に美しい雲が現れたのだとか。そして皆さん、桓武天皇に聞き覚えがあるのではないでしょうか? そう、794年の平安遷都を行った天皇です。桓武天皇はその在位中『天応』『延暦』と2回改元を行っているのですが、奈良時代では「祥瑞改元」を行うことが多かったため、1世1元どころか1世2元、3元と当たり前にあったもようです。

 

新元号「令和」の典拠となった『万葉集』

●日本最古の歌集

万葉集は現存する日本最古の歌集です。全20巻の巻物から成り立っており、短いもので8m、長いものでは20mにも達するものあるそう。時代は飛鳥時代の第29代・舒明天皇から奈良時代の第47代・淳仁天皇にいたる約130年間と長きに渡ります。また詠まれた場所も東北から九州まで幅広いことから、その編纂方法とともに多くの謎に包まれています。が、巻第十七から巻第二十までは、大伴家持の歌日記のように編纂されていることから、最後の編纂者は大伴家持だとする説が有力視されています。

 

『万葉集』に収められている4500首あまりの作者階層は天皇をはじめ皇族、農民や防人(兵士)、童女といったように、地位や階級、老若男女に関係なく、集められました。この多様性こそが『万葉集』の強みでもあり、多くの人がどこか歌に親しみやすさを感じるのでしょう。

 

●万葉集、その部立

万葉集に収められている和歌は、雑歌(ぞうか)、相聞(そうもん)、挽歌(ばんか)――の三つに分類されています。

◎雑歌(ぞうか)・・・・・・雑多な歌、という意味ではなく、儀礼・旅・宴会など、公的な場で作られた重要な歌。相聞、挽歌以外の和歌は全てこの雑歌に分類。
◎相聞(そうもん)・・・・・恋愛の歌。
◎挽歌(ばんか)・・・・・・葬送の歌、死を悲しむ歌。

 

令和の典拠となった『万葉集』巻五

さて、新元号・令和の典拠となった『万葉集』巻五ですが、全20巻の中でもひときわ個性を放つ巻であるといえるでしょう。その理由は

 ・中国文学の影響が色濃く、漢文の文章が占める割合が多い
 ・筑紫(今の九州)が主な舞台である
 ・大伴旅人、山上憶良ら少数の作者の作品が中心である
 ・その表記には一字一音の仮名が多用されている

 

では、梅花宴(ばいかのえん)はいつ頃詠まれたものなのでしょう。
遡ること約1300年、時は天平、奈良時代。東大寺の廬舎那仏建立の詔を発した聖武天皇の時代です。その天平2年正月3日(今でいう2月8日)、太宰帥(だざいふのそち)(大宰府の長官)であった大伴旅人が自邸で梅の花を楽しむ宴を開きました。もちろんその宴には『貧窮問答歌』で有名な山上憶良を始めとする32名が参加、彼らが梅を題材に詠んだ32首が収められています。

 

実は主催者である大伴旅人は、当時の和歌にはなかった序文プラス和歌という、新しい文芸作品を生み出した人物。この梅の宴も以下の漢文風の序文から始まるのですが、新元号「令和」の出典元となった部分はこの冒頭、ということなのですね。

 

 天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。
(天平二年正月十三日、大宰帥旅人卿の邸宅に集まって、宴会をくりひろげる。)

 

于時、初春月、氣淑風。梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

(折しも、初春の正月の良い月で、気は良く風は穏やかである。梅は鏡の前の白粉(おしろい)のように白く咲き、蘭(らん)は匂(にお)い袋のように香(かお)っている。)

加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。

(そればかりではない。夜明けの峰には雲がさしかかり、松はその雲の羅(ベール)をまとって蓋(きぬがさ)をさしかけたように見え、夕方の山の頂(いただき)には霧がかかって、鳥はその霧の幕(とばり)に封じ込められて林の中に迷っている。)

庭舞新蝶、空歸故鴈。

(庭には今年の新しい蝶(ちょう)が舞っており、空には去年の雁が帰って行く。)

 

於是、盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。
(そこで、天を屋根にし地を席(むしろ)にし、互いに膝(ひざ)を近づけ酒杯(さかずき)をまわす。一堂の内では言うことばも忘れるほど楽しくなごやかであり、外の大気に向かっては心をくつろがせる。)

淡然自放、快然自足。

(さっぱりとして各自気楽にふるまい、愉快になって満ち足りた思いでいる。)

若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。
(もし文筆によらないでは、どうしてこの心の中を述べ尽くすことができようか。漢詩に落梅(らくばい)の詩篇が見られるが、古(いにしえ)も今もどうして立場の違いがあろうか。)

宜賦園梅、聊成短詠。

(ここに庭の梅を題として、ともかくも短歌を作りたまえ。)

出典:日本古典文学全集3 萬葉集二

 

なんとも伸びやかで瑞々しいことか……! (序文作者には諸説あるものの)齢60を超えてもなお留まることをしらない大伴旅人の感性に驚愕せずにはいられません。

 

歌は万葉人のコミュニケーションツール

ところで梅花宴32首で詠まれている “ 梅 ” ですが、『万葉集』全体ではなんと122首も詠まれています。当時から春の代表的な景物の一つとしてあったことが読み取れるものの、明確な作歌時期がわかるものは奈良時代以降に限られています。というのも、梅(この時代の梅=白梅をさす)は、飛鳥から奈良時代にかけて中国から伝来したもの。一般庶民にはあまりなじみがなかったのです。そのため梅は、貴族が楽しむ文雅の花とされていたようです。

梅宴を楽しむことは奈良朝貴族、旅人らにとって一種のステータス。と同時に貴族、庶民に限らず自分の想いを和歌という形にすることは、万葉人にとって重要なコミュニケーションツールだったのに違いありません。

 

 

 

『万葉集』の最終歌は大伴家持によるこの歌です。

新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
(新しい 年の初めの 初春の 今日降る雪の様に 積もれよ良い事)

出典:日本古典文学全集5 萬葉集四

 

1989年1月8日に始まった平成は、2019年4月30日をもってその歴史の幕を閉じ、「令和」時代を迎えます。

新時代を生きるわたしたちがこれらかどう生きるのか。その想いを、万葉人に倣い、言葉(形)にしてみるのもよいかもしれませんね。

 

 

【参考】
『元号 全247総覧』 山本博文 悟空出版 2017
『日本古典文学全集3 萬葉集二』 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広 小学館 1972
『大伴旅人 人と作品』 中西進編 おうふう 1998
『花見と桜 <日本的なるもの>再考』 白幡洋三郎 PHP新書 2000

Posted by Yamada Ikuko

編集&ライター業のママフリーランス。会社員の夫とともに「わが家らしい共働きスタイルってなんだろう?」と日々模索中。
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