2018.02.19,

「あたし」は「お母さん」である前に “一人の人間” である

こんにちは、プロジェクトサポーター・ライター、どっちもワーカーの村上杏菜です。

 

今月に入ってすぐ、ネットを中心に大きな議論を巻き起こした楽曲『あたしおかあさんだから』をご存知でしょうか。子育てや働き方の多様化が進む今、多くの人に何かしら感じさせるものがあったようです。

 

歌詞全文はここでは割愛しますが、ヒール、ネイル、睡眠、ライブ、買い物など “我慢していること”に加えて、早起き、料理、新幹線の名前覚えなど“頑張っていること”を羅列。その合間合間に「あたしおかあさんだから」が何度も繰り返され、最後は「それ全部より おかあさんになれてよかった あたしおかあさんになれてよかった(中略)だってあなたにあえたから」と、我が子と出会えた喜びで締めくくられています。

 

SNSを中心にネットでは「母親の自己犠牲や我慢を美化している」「現実がわかっていない」等、歌詞と作詞家に対する批判の嵐が吹き荒れました。Twitterでは「あたしおかあさんだから」に対抗する「あたしおかあさんだけど」というハッシュタグが生まれ、「ママはそんなに我慢ばかりしていない」と反論する人も。

 

「おかあさん」の役割ありきで考えると苦しくなる

 

私にとっても“自分らしい”子育て・働き方は人生の大きなテーマです。この騒動を興味深く追う中、ふと感じたことがありました。それは「あたしおかあさんだから」「あたしおかあさんだけど」のいずれにしろ、役割ありきで考えている、ということ。その後に続く自分の行動を誰かに言い訳しているみたいに聞こえてならないのです。

 

歌詞では「おかあさんだから」を理由に「今は爪切るわ」「走れる服着るの」「眠いまま朝5時に起きるの」「大好きなおかずあげるの」などがたくさん綴られています。作詞を担当したのぶみ氏は実際のお母さんたちに取材をして歌詞を書いたそうですが、 きっとこのお母さんたちは自主的にそれらを行っているのであって、“「おかあさん」だから必ずする”と決められたことに従っているわけではないと思うのです。

 

独身時代にはめんどくさいとか嫌だとか感じていたことを、今は自主的に頑張っている。「やってあげたい」「そうしたい」という内発的な動機があればこそでしょう。それをいわゆる“母性”と表現することもできますが、女性に限らず、子どもや弱いものを守り慈しもうとする人間としての本能ではないでしょうか。

そのような、本来であれば内発的動機による行動を「あたしおかあさんだから」と役割とくっつけて説明した途端、一気に「させられている感」や自己犠牲のニュアンスが…。

つまり「あたし」がしたいことを「おかあさん」という役割を持ち出して考える必要はない、ということではないでしょうか。

 

「おかあさん」である前に「あたし」である

 

忘れてはならないのは、「おかあさん」である前に「あたし」は一人の人間であること。一人の人間としてのアイデンティティーを確立した女性が、縁あって母親となった。「おかあさん」である前に「あたし」であるわけです。だから母性をベースに湧き上がってくる「子どものために〜してあげたい」という思いと、「あたし」がしたいこととが食い違ってしまう、というケースが発生するのも当然ながらありえます。

 

そのような時に「あたしおかあさんだから」と役割を持ち出して考えると「あたし」が犠牲になるような気持ちがするはず。だからといって自分のしたいことを優先するのに「あたしおかあさんだけど」と自分に言い訳する必要もありません。「『おかあさん』という要素を持った『あたし』が、どうしたいのか」、それを考えればよいのだと思います。

 

「今年もライブに行きたいけど、夜、私がいないと子どもが寂しがるな…」と迷った時、「まだ夜泣きが多い時期だし、気になってライブを楽しめそうにないからやめとこう。来年、また子どもの様子を見て考えよう」と決めるか「一年に一回このアーティストに会えるのが生きる喜びなの! なんとしても行く! 子どもが寂しくないようにおじいちゃんとおばあちゃん(またはパパやベビーシッターさん)を呼ぼう。それか、一人で寝る練習をさせてみてもいいかも」と決めるかは本人の自由。

そしてその理由に「おかあさんだから」も「おかあさんだけど」も持ち出して考える必要はないのです。あくまで「おかあさん」の要素を持った「あたし」本人が納得できる方法を考え、行動すればよいのですから。

 

 

「あたし」がしたいことであるのなら、おかずを譲るのも、早起きするのも、自己犠牲とは言えないでしょう。逆に「あたし」がしたくないのなら、爪を切ったり、甘いカレーライスを作ったりする必要もないでしょう。爪の先端を丸く整えて平面的なアートを施すとか、甘いカレーはレトルトで済ますとか、とにかく自分の中の“内発的な母性”とうまく折り合いをつければよいのです。

 

「(子どものために)してあげたい」という気持ちを“自己犠牲”と呼ぶのも、「(自分のために)したい」という気持ちを“自分勝手・ワガママ”と呼ぶのも、息苦しいだけ。「あたし」はあくまで一人の人間。役割を持ち出し過ぎず、自分の中から湧き上がる素直な思いに身を預ければ、気持ちは楽になるのではないでしょうか。

Posted by 村上 杏菜

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